「ために」ではなく「ただひたすら」の気持ちで
1週間ほど前まで、「光のギャラリー ~アトリエTK」の方に自作の絵手紙を掲載できない日がしばらく続いていました。このブログもあまり更新できていませんでした。
「どうしたんだろう?」「忙しいのかな」と心配してくださった方もおられるかも知れませんが、何か絵を描く気になれなかったのです。
ただ、ありがたいことに、その間も、毎日のように投稿作品が届き、それを次々掲載していくことで、ブログ自体は活況を呈していました。
ちょうど、この2、3カ月の間、このたび新しく発行されたブログ本『光のギャラリー 絵手紙はWebにのって』の編集作業が続いていて、そちらの方に神経を使っていたことも、絵を描く気になれなかった要因の一つではあるのでしょう。でも、それだけではないような気がしていました。
そんなある日、私が好きな画家の一人、中川一政画伯の「書について」の講演録を読んでいて、はっとさせられる文章が目に飛び込んできました。
「役に立とうと思ってやったことはそんなに長続きしない。役に立たない、まるで役に立たないと思っている純粋な気持ちになったものが、結局人間の役に立つんだと思うんです」
(『生命の王者 油絵を描いた禅坊主・中川一政』58頁)
頭をガーンと殴られたような気がしましたね、このセンテンスを読んで。
私の場合は、ブログを通して絵や文章を発信しているわけですが、やはり、受け手の反応が気になる時があります。もちろん、世界に向かって公開しているわけですから、それなりの責任をもって情報を発信しなければならないわけですが、上の引用文で言えば、「役に立とう」という意識が過剰になって、絵にしても文章にしても、自らの筆を鈍らせていたのではないかと思ったのです。私の心に純粋さに通じる“気楽さ”が失われていたのではないか、と反省しました。
ちょっと話が前後しますが、中川画伯は、先の引用文の前に、松尾芭蕉の例を挙げて説明しています。ちょっと長いのですが、引用します。
「芭蕉が去来と会って“紫門の辞”というのを書いています。芭蕉の眼目なんだろうと思うんだけれども、自分の俳諧の道というのは夏炉冬扇だ。夏の火鉢、冬の扇、どっちも役に立たないものだと、自分の俳諧も役に立たないものだと、大衆に背を向けている。そこに芭蕉の専門家としての背水の陣があるわけなんです。
芭蕉が掘り下げて考えて、そこから一歩も引くことのできない立場に立って、そこから芭蕉が出てきたわけなんです。その基盤がさすがに堅固なものだと思うんです。そういう土台に立たなければ専門家っていうものは出てこない。自分は無学でもって無能だから、それだからこの俳諧の道というこの細い道をすがっていくんだということを書いている。
そこまで突きつめて初めて悟れるんで、そこのところが大切だと思うんです。芭蕉がそういうふうにして、自分はもう大衆に役に立たないって言った芭蕉が純粋な芸術ってものを創った。
純粋ってのは、何かの役に立とうと考えたらもうそれが純粋じゃないんで、まるで白紙の純粋なんです」(同書57-58頁)
「俳諧の道というこの細い道をすがっていくんだ」、これは要するに、「ただひたすら…」ということではないかと思います。私は俳句を詠んだことはないので、芭蕉のほんとうに言いたいことがどれくらい理解できているか自信はないのですが、同じ言葉を使った表現手法である短歌は、一時期、毎日のように創作していましたので、なんとなく分かるような気がします。短歌の場合は、絵の制作と同じように、自分自身の内面に向き合うことが大切になる。つまり、五・七・五・七・七という限られた文字数に思いを表現しようとする過程で、自分自身が一体何に心を動かされたのかを見極める、それが一番重要なことなのではないかと思っています。そうして生まれてきた作品が、結果的に第三者にも伝わり、心を通わせることができる。しかしながら、「役に立つ」とか「役に立たない」とか考える以前に、素直な自分の心にひたすら向き合う、それが中川画伯が言うところの「純粋」ということになると思うのです。
そんなことを考えていると、千利休の次の言葉が思い出されました。
茶の湯とはただ湯を沸かし、茶を点(た)てて、
飲むばかりなる事と知るべし
この一見、当たり前のような言葉。茶の湯の一連の流れを示しただけのようなシンプルな言葉に、利休は、どんな思いを込めたのでしょうか? それは、絵を描く行為にも通じる大切なことを物語っているように思うのです。スケッチを行う時、ただ対象をよく観察して、筆やペンでアウトラインを描き、彩色する――この「ただ」絵を描く行為に没頭する、そこに自ずから個性ある表現が現れてくる。そして、その自己表現を成し遂げたことによって喜びがわき上がってくることは、絵を描いたことのある人ならお分かりいただけると思います。
「ただひたすら…」、そんな気持ちで今、私は母への絵手紙を出し続けています。それが、人間が無意識のうちに呼吸をするような感じで、自然に続けられるようになれば、いいなぁと思っているところです。
小関 隆史(TK)
2008年4月26日
【参考資料】
○『生命の王者 油絵を描いた禅坊主・中川一政』清水義光著 河出書房新社 1992年)
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