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2014年10月23日 (木)

完成の一歩手前の美

【今朝のごあいさつ 〜2014年10月23日】

 
 おはようございます。
 昨日は、東京で会議がありましたので、その前に、
 京王百貨店新宿店の「開窯110周年記念帰来窯 佐々木虚室茶陶展」に立ち寄りました。
 この佐々木虚室さんは、私の出身高校の1学年上の先輩。 
 祖父から続く三代目として、美術工芸高校時代から陶芸科で作陶を学んでおられた方です。
 今回の展覧会は、茶陶展というだけあって、
 茶の湯にまつわる茶碗、花器、菓子の器、香炉などの陶器を中心に展示されていました。
 そして、茶の世界のイメージを広げるために、茶道の家元などが書かれた掛け軸なども掲げてありました。
 
 佐々木さんの作品を見たのは初めてだったのですが、実に多彩な作風でした。
 茶碗にしても、漆黒のもの、夕焼けを思わせる赤いもの、鮮やかな緑の釉薬(うわぐすり)がかかっているもの…。
 質感といい、色といい、碗一つとってみても、実に、多彩な表情があるのですね。
 佐々木さんと話していて分かったのですが、茶陶というのは、あくまでも茶の湯のための陶器であって、
 それ自体で完成させてはいけない、ということです。
 茶碗なら、お茶がそこに入って初めて完成となり、花器なら、花を生けて完成となる。
 完成の一歩手前の美を求めるのが、茶陶なのですね。
 陶器それ自体が一部の隙(すき)もなく完成してしまっていては、
 そこに主体者である茶人が何ら手を加えることができなくなる。
 しかも、陶芸家としての自分の思いや趣向を全面に出すのではなく、
 あくまでも依頼者である茶人が求める作品を提供するのが本旨です。
 つまり、茶人が誰かを茶室に招いてもてなす時に使いたい器づくりを目指す。
 まさに、使われ、用いられる美、すなわち“用の美”を追求するのが茶陶の本質なのですね。
 だから、陶芸の技術を磨くだけでなく、茶の湯の世界も知らなければ、喜ばれる作品ができないわけです。
 よって、佐々木さんは、プロの道を歩みだされた30年ほど前から、茶道と華道も師匠について習われたそうです。
 私は、茶の湯の創始者、千利休に興味があって、
 歴史小説『利休にたずねよ』(山本兼一著)を読んだことがあるのですが、
 一言でいうと、茶の湯は、総合芸術なのですね。
 鳥たちのさえずる庭から、香しい香りに満ちた茶室に入り、生け花、掛け軸を見、器を手に、菓子や抹茶を味わう。
 そこには、主人からの話もあるでしょう。
 目、耳、鼻、口、皮膚の五官をフルに使って、客をもてなす。
 それ以前に、客の好みや人となりに思いをはせ、主人として客に何をどう伝えるか、何を感じてもらいたいかを考える。
 そこに自然(季節)をも取り込んで、もてなしの準備をする。
 たとえば、「利休にたずねよ」の映画の中で印象的だったのは、
 織田信長が、茶人が用意した茶道具などの名宝の中から、気に入った品を選んで買っていくシーン。
 利休は廊下に、水を張った何気ない器を置き、そこに満月を映してみせた。
 信長はたいそう心を動かされて、無言で大量の金銀を利休の前にばらまいて立ち去っていく。
 まさに、壮大な月を手中(器)に収めるという利休の隠喩が、天下人を目指す信長の心と符合したのでしょう。
 ですから、佐々木さんとも話し合ったのですが、茶の湯というのは、実に奥が深い。
 時に応じ、人に応じて、もてなしの形が千変万化する。
 相手を知り、自然を知り、そして美を感じとる感性を養う。
 ゆえに、茶陶も一つの形にとどまることはなく、絶えず、新しい創造が求められる。
 まさに、伝統継承と新規創造の二面が必要なのですね。
 そして、それは、どの世界にも通じることではないでしょうか。
 だからこそ、今の時代に私たちが生きる価値がある、と言えましょう。
 今日も、それぞれの道で、新しい価値を生み出す一歩を踏み出したいですね。
Sasakikyoshituten20141022

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