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2015年1月10日 (土)

いのちの表現としての芸術について考える(前半)

【今朝のごあいさつ 〜2015年1月10日】

 おはようございます。
 最近、生長の家創始者・谷口雅春大聖師の書の作品が掲載された『谷口雅春墨滴集』に収録の「書道における抽象と造形」という文章を読み直しました。
 この文章は、昭和38年に朝日新聞東京本社で行われた第3回「書道講演会」でのスピーチ(講話)に加筆して掲載されたものです。
 谷口師は、書家ではなく宗教家ですが、その時点で数万点の書を揮毫していたこと、芸術全般に深い関心を寄せていたことなどから、書についての講演を依頼されたようです。
 書を通して、いのちの表現としての芸術の本質が説かれているように感じましたので、要点をご紹介したいと思います。
 まずは、「書は人格の表現」ということを次のように説明しています。
○“書”というものを芸術作品として見るときそれは内部の人格の表現ということになり、その人の想念感情が必ずその“書”にあらわれることになるのであります。それは技巧とか技術とか筆勢とか書法とかいうものを超越して、その人の生命そのものが直接的に表現されるのであります(3ページ)
 確かに、几帳面な性格の人は、一点一画をきっちり書きますし、大胆でおおざっぱな人は、伸びやかさが文字にも表れるというのは、私たちも日常でよく目にします。文字には独特の雰囲気がある、ということですね。
 その理由として谷口師は、「その人の心の動きというものは、その人の全身の細胞の振動に影響を与える」からだと説明しています。
 その一例として、聾盲唖の三重苦の聖者ヘレン・ケラーがかつて来日した時、握手したときの相手の指先の細胞の微妙な振動で、「この人は私に愛情をもっている」「この人は私を尊敬している」「この人は儀礼的に握手をしているが、心は冷たい人だ」などと、感じたということを紹介。
 ですから、「立派な“書”をかこうと思うものは、技術や技巧より先に、自分の人格を磨くことが大切であります」と説いています。
 その一方で、「“書”はやはり“造形芸術”でありますから、形が美しくなければならないと思います」とも語り、書を習う人は、最初に立派な書の手本を真似て練習することが大切で、書法に適(かな)った書が書けるようになるのが第一歩であるとしています。
 私は、これは絵画におけるデッサンと共通するものがあると思います。デッサンを行う目的はいろいろありますが、一つには、造形的なバランス感覚を身につけることではないかと思っています。なぜ、目の前のものが美しいのか、なぜ、そう見えるのかを、描き写しながら学ぶのですね。それが、書において形の美しさを追求することと共通すると思います。
 また、谷口師は、現代の習字の先生につく場合は、印刷物ではない、毛筆で書かれた生(なま)のままの筆跡を手本にする方が、その先生が書を書く時の“心構え”などが伝わってきて、上達が早いとします。
 ですから、これから書を勉強しようとする人は、「自分の最も尊敬し、最も愛好する書風の先生の御手本について、しっかりその書法を呑み込むように練習するがよい」とアドバイスしています。
 その上で、練習に練習を重ねて、「自分の腕や指先を、自分の心が思う通り、自由自在に動かせるようにマスターすることがすべての腕や指先を使う芸術には必要であります」と。これは、絵画はもちろん、音楽にもあてはまる根本的な真理だと思います。
 次回後半は、「書法(型)より入って書法(型)を抜ける」というところを、学んでみたいと思います。
 今日も、お元気で!
【参考資料】
○『谷口雅春墨滴集』(谷口恵美子精選、日本教文社刊、平成5年初版)
http://www.kyobunsha.co.jp/shopping/books/ISBN4-531-05165-3.html

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