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2015年3月 9日 (月)

表現の奥にあるもの 〜『生きる哲学』(若松英輔著)を読んで(3)

【今朝のごあいさつ 〜2015年3月9日】
 おはようございます。
 同書を第三章の最後まで読み終わりました。
 第二章が「彫る 舟越保武の「かたち」が照らす光」、第三章が「祈る 原民喜の心願」です。
 いずれの文章も、しびれましたね。
 読書をすることで、世界が広がっていく感じがします。
 私に受け入れ準備が整ったから本書と出合えたのでしょう。
 舟越保武さんのことは知っていました。現代日本の代表的な彫刻家の一人、舟越桂さんお父様ということで。桂さんの制作ドキュメンタリーをDVDで見たことがありまして、非常に感動したのです。桂さんも、お父様と同じようにクリスチャンで、北海道函館のトラピスト修道院からの依頼で、初めて木彫りの聖母子像を彫るのですね、25歳の時。それで、産みの苦しみを味わうのですが、インスピレーションがおりてきて、教会の天井近くに浮かぶようなオリジナリティのある聖母子像を誕生させる。それが、木彫りの彫刻家としての道を切り開く、一つの転機になったのです。
 今では、その作品を、どこかできっと読者の皆さんも目にされたことがあるほどの人気作家です。あの小説『永遠の仔』の挿画にもなりました。
 でも、世代が違うので、父、保武さんの作品は見た事がなかったのです。が、本書では、その晩年に、脳血栓で倒れて右半身が不自由になった中、左手だけでキリストの顔を彫ったその経緯が次のように書かれていて、興味がわきました。
「病に倒れる以前にも彼は、イエス像を作ろうとしたことがあった。デッサンが残っている。だが、どうしてもかたちにならなかった。彫刻家である彼にとってイエスの姿を彫り得るか否かは、ほとんど自らの信仰の根源を問い質す営みだったと考えてよい。それは、書き手がイエス伝を書くことに似ている」(『生きる哲学』P42)
 その作品『ゴルゴダ』(鋳造)は、岩手県立美術館に収蔵されていて、同美術館の公式ホームページで、画像を見ることができるのですが、写真からでも、力強い造形力と、慈愛深い優しさが同居する不思議な魅力が伝わってくるようです。
 そんな舟越保武さんは、若き日に高村光太郎に魅せられ、詩人でもあり、彫刻家でもあった彼のことを紹介しながら、次のように語っています。
「人の心に映るすべての生命の存在を凝視する。高い視点から生まれる想いが、詩心であり、これを源にして、言葉になれば詩であり、形になれば絵になり彫刻になるのだと思う。
 高村さんの場合は、それがある時は形となり、ある時は言葉になったのだ。ここには、表現手段の違いだけがあって、二つの別なものとして分けられるものではない、と私はそんなふうに考えていた。(「高村光太郎と岩手」『舟越保武全随筆集 巨岩と花びら ほか』)」(同書P43-44)
 この「表現の源は一つ」とする考え方に、私は深く同意します。
 そして、本書では、この舟越さんが、中学時代の同級生だった画家の松本竣介と非常に仲がよく、「芸術的身体というものがあるとすれば、二人は互いの半身だった。(中略)二人の作品は共に、私たちが暮らすこの世界、あるいはそれを認識していると信じている五感が共に、実在するものの一部しかとらえていないことを教えてくれる。世界が多層的に存在し、人間は五つをはるかに超える感覚が付与されていることを気づかせてくれる」(同書P41)と語っています。
 松本竣介は、生長の家の信仰に深く共鳴して、かつて生長の家が刊行していた『生命の藝術』という雑誌の編集と執筆に携わっていたことは、知る人ぞ知る事実です。
 思いがけないところで、私自身とのつながりを感じました。
 舟越保武と松本竣介の二人をつなぐもの。
 それを、二人が残した作品と文章から、読み解いていければと願います。信仰と芸術との関わりについて、考察するためにも。
 今日も、どうぞ、お元気で!
【参考資料】
○若松英輔著『生きる哲学』(文春新書、2014年)

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